式内 久理陀神社
Contents
概 要
社号 式内社 丹後国與謝郡 久理陀神社
読み:古 クリタ、現 くりだ
所在地 京都府宮津市小田宿野字中谷262
旧地名 丹後国與謝郡栗田郷小田宿野村
御祭神 栗田大明神
例祭日 旧例祭4月20日 秋季例祭 10月12日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
加佐郡(カサ):11座(大1座・小10座)
式内社
近代社格制度
創建
本殿様式
境内摂社(祭神)
一口メモ
国道178号線の北近畿タンゴ鉄道栗田駅に近い交差点を北へ。栗田湾の西岸沿い605号線を行く。50年生きてきて生まれて初めての場所だ。宮津湾と栗田湾の間に突き出た栗田半島の東側、神社は古い住所は「粟田小田宿野」という長い地名で、どう区切ったらいいのだろうと思いながら、真っ直ぐ行くと関西電力の宮津エネルギー研究所と火力発電所の大きな煙突が見える。敷地内に「丹後魚っ知館」という水族館もある。若狭湾や由良川河口の魚を中心に、約300種もの魚介が見られる京都で唯一の本格的な水族館(京都市内にも水族館がH24にできたが)。福井県は原子力発電所が集中しているが、舞鶴湾は火力発電所で大きな発電所がここと舞鶴と2ヶ所ある。震災後話題の関電だが、今回は目的が神社なので、門まで行ったが別の機会に。
歴史・由緒等
久理陀神社
現在のどの神社に比定するかは従来から2説ある。延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳にすでに2箇所記載があるので、当時からすでに分からなかったようである。
上司の住吉神社か小田宿野の久理陀神社のどちらかのようである。現在の栗田(くんだ)という地名の元となった神社と思われる。
久理陀神社は、現在地には昭和六十二年(一九八七)(あるいは昭和15年)旧社地より移転したもので、旧社地は少し東にあり、跡地を示す石碑が建立されている。さらにそれ以前にも何回か社地は移動している。この久理陀神社は、以前は日比(ひい)大明神、日比宮と呼ばれていた。現在の社殿は、寛政三年(一七九一)の建立である。
《丹後旧事記》
久理陀神社。栗田上司村。祭神=住吉大明神。延喜式竝小社。同郡小田村栗田神社といふ社は当社の分宮なり。
『丹後史料叢書』「丹後国式内神社取調書」
久理陀神社
○久理田村
【式考】栗田郷小田宿野村ノ社是ナリ上司町ノ住吉ト云ハ非ナリ小田宿野村ニ今モ栗田社ト称スヤ社アリ是ナリ宝暦九年明細書上帳ニ上司町ハ住吉大明神社四尺四方云々神子出雲宮守九市郎トアリ小田宿野村ハ栗田大明神社二尺村支配トアリ
【豊】所在同上字田宿例祭十二月廿四日
【宮津志】上司町ニアリ栗田明神七社アリ住吉ヲ祭ル栗田ノ内七ケ村
ニ一社ヅヽアリ九月十三日祭礼ノ時ハ此辺ノ土民集リ七ケ村ヨリ神輿ヲ扛キ出シ海岸ニヒタシクルクルトカキ廻リ聲ヲ高クアゲ神輿ヲ振リ住吉大明神ノ此浦ヘ渡リ給ヒタルト云テ脹シキ祭ナリ
【覈】栗田上司町ニマス
【明細】同上祭神三筒男命祭日九月十三日
【道】所在祭神同)
(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未
定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)
境内・社叢
社叢
一ノ鳥居 二ノ鳥居
手水鉢が左右に2つ。古いものと新しい手水舎。新しいといってもかなりの年季。
社殿と境内摂社 社殿
左右境内社
百度石
地名・地誌
栗田(くんだ)
丹後国与謝郡栗田は「くんだ」と読む。栗田湾に面する地域を表栗田、宮津湾・天橋立に面する地域を裏栗田と呼ぶ。もともとは小田村と宿野村の二つであったという。
当村の漁業は栗田各村のうちでは最も早くから盛んで、地曳網・敷網・刺網などの漁法が行われた。雄島参りが行われる。明治22年栗田村の大字となる。
小田宿野村は、江戸期~明治22年の村名。「慶長検地郷村帳」に「栗田村之内」として「小田村、宿野村」とあり、小田・宿野の二村に分れていた。その後一村になり個別に高付されたとみえ、延宝三年郷村帳に「栗田小田宿野村」。「丹哥府志」が小田村・宿野村に分けて記すのは、かつての呼称が近世になっても慣習的に残っていたことを示す。小田宿野は、明治22年~現在の大字名。はじめ栗田村、昭和29年からは宮津市の大字。同30年一部が鏡ケ浦になる。
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「神詣」さん、「丹後の地名地理・歴史資料集」、「神社探訪」さん、『延喜式の調査』さん
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